雑記

雑な記録。略して雑記。

大人と子供

泣き言や文句だけ言って許されるのは子供だけだ。
どんな状況でも知恵を出しあってやりぬくのが大人の仕事だろ。

『重版出来』の1コマより。


『重版出来』は漫画出版を巡るあれこれを描いた漫画です。作家、出版社、書店、印刷所、校閲といった様々な視点から漫画出版という主題を捉えているのが面白い。
この漫画に出てくる方々は熱い方々が多いので、やる気が低迷した際に読むと少し元気が出ます。


私はとかく泣き言や文句を並べて面倒事を回避する傾向が強いので、引用のセリフは身にしみます。
12月になり今年もまとめの時期に入ってきましたので、悔いの残らないよう知恵を振り絞って頑張ります。

坂戸佐兵衛・旅井とり『めしばな刑事タチバナ』、新久千映『ワカコ酒』、高瀬志帆『おとりよせ王子飯田好実』、雨隠ギド『甘々と稲妻』

腹が減っては戦はできぬ。

そんなことわざがありますが、戦に限らずとも、空腹では何もする気になりません。

何も食べなければそのまま死んでしまいます。

食べることは生きること。

ということは、食事が充実していれば人生が充実していると言っても過言ではありません。

そういうわけで、今回は食をテーマにした漫画を取り上げます。

 

めしばな刑事タチバナ 23 (トクマコミックス)

めしばな刑事タチバナ 23 (トクマコミックス)

 

 

主人公が得意分野について語り尽くす、いわゆる薀蓄モノなのですが、その対象がカップ麺だったり牛丼だったり(言い方は悪いかもしれませんが)庶民の食だというのがこの漫画の醍醐味です。その対象ゆえに読んでいれば知っている名前がじゃんじゃん出てきて、「まさかあの食べ物にそんな背景があったとは」と驚くこと間違いありません。

 

 

ワカコ酒 7 (ゼノンコミックス)

ワカコ酒 7 (ゼノンコミックス)

 

 

満足すると「ぷしゅー」という謎の息(?)が出るワカコさんが酒と肴をひたすら楽しむお話です。1話1話が短いので、さらっと読めます。

薀蓄が披露されるとか奇抜な展開があるとかそういうわけではないのですが、一人でも表情豊かにお酒と食事を楽しむワカコさんを見ていると前向きな気持ちになれます。

 

 

料理漫画というとネタさえあれば延々と続けられそうなイメージなのです(『美味しんぼ』然り『クッキングパパ』然り)が、『おとりよせ王子飯田好実』はなんと7巻で完結しました。いやはや驚愕です。

現実にある商品を扱っているので、自分でもおとりよせできるというのが素晴らしい……と言いつつ、私はおとりよせはしたことがありません。好実氏のリアクション芸と薀蓄で満足してしまうからでしょうか。

 

 

甘々と稲妻(7) (アフタヌーンKC)

甘々と稲妻(7) (アフタヌーンKC)

 

 

やはり子供というのは卑怯です。なにせ、楽しそうに食事をしている様子を見ているだけで、こんなに癒されてしまうのですから。

一行で要約すると父子家庭のおとうさんが娘のために料理に精を出すというお話で、作者お手製(?)と思しきレシピが話の終わりに出てきます。ただ、けっこう手間をかけた品が多いため中々試す気にはなりません。

もちろん冒頭に述べたように幼稚園児つむぎちゃんが食を謳歌している様子を見ているだけでも満喫できますが、料理好きの方が読むと一層楽しいかもしれません。

 

 

そういえばここまで書いてふと思い出しましたが、『めしばな刑事タチバナ』に似た漫画に『だがしかし』がありますね。

 

 6巻にして遂に話に大きな動きが出てきましたので、続刊が楽しみです。

 

 

そしてまたまた思い出したのですが、料理のレシピが参考になると言えば『きのう何食べた?』ですね。

 

きのう何食べた?(12) (モーニング KC)

きのう何食べた?(12) (モーニング KC)

 

実家暮らしの時代に 8巻あたりで読むのを止めた記憶がありますが、一人暮らしを始めた今ならまた違った楽しみ方ができるかもしれません。

 

 

花のズボラ飯』とかその繋がりで『孤独のグルメ』とかも脳裏に過りましたが、また何か思い出したら終わらなくなりそうなので、このあたりで。あ、でも『花のズボラ飯』の親子丼のレシピは私でも作ろうかと思えるくらいなのでオススメです。 

花のズボラ飯(3)(書籍扱いコミックス)

花のズボラ飯(3)(書籍扱いコミックス)

 

 

 

孤独のグルメ 【新装版】

孤独のグルメ 【新装版】

 

 

強さ

強いってなんですか?

『はじめの一歩』の主人公幕ノ内一歩がボクシングを始めるきっかけとなった問いである。
90巻を超えたあたりで放り出してしまって読んでいないけれど、一歩の中で答えは出たのだろうか。


もし私が同じ問いに対して答えを迫られたら何と返すだろう。
恐らくこの問いを「強い人とはどういう人か」と読み替えても問題はないと思うので、そう考えるとぱっと思いつくのは「勝つ人」だろうか。
ボクシングの試合で言っても、強い人というのは勝ち星を重ねる人のことのように思える。強ければ勝つ。勝てば強い。必要十分条件というやつだ。


しかし、勝つといっても判然としないことが多い。人生という壮大な単語を持ち出さずとも、たとえば議論でも何を以って勝ちとするかは不明瞭である。AさんとBさんの議論でAB双方が「勝った」と主張することなんてSNSを見ていれば日常茶飯事だ。


では、ボクシングと議論の差は何か。答えは簡単。勝ちが明確に定義されているかどうかである。
では勝ちをどう定義するか。
それは状況と人(人)次第である。どの部分を切り出して一勝負とするかという軸と、人または人々の価値観という軸がある。


しかし、どちらの軸も恣意的なので、「勝ちの価値とは?」というギャグに至る。
……不毛な話だった。

はじめの一歩(1) (講談社コミックス)

はじめの一歩(1) (講談社コミックス)

森見登美彦「山月記」(『新釈走れメロス』所収)、萩原浩「成人式」(『海の見える理髪店』所収)

あのときああしていたら。

あのときああしなければ。

「たられば」で歴史を語るべからずとはよく言いますが、よく言われるということは逆説的にそれだけ「たられば」に人は陥るということです。

仮定の話が意味をなすのは、それが未来に現れうるときだけ。

だから取り戻しようのないことについて「たられば」を云々しても仕方ない。

頭では分かっていても、体得するのは困難です。

 

今回はそんな感じの短編を取り上げます。

新釈 走れメロス 他四篇 (祥伝社文庫 も 10-1)

新釈 走れメロス 他四篇 (祥伝社文庫 も 10-1)

 

私は一時期森見登美彦氏の作品にはまっていました。

というか、今でも時々読み返してしまいます。

そしてこの前中島敦山月記』を紹介し、ふと思いついてこちらの「山月記」も読み直した次第です。

中島敦山月記』と異なるのは、李徴には袁傪がいましたが、斎藤秀太郎には誰もいません。斎藤を尊敬してやまない永田が強いて言えば袁傪に近いのでしょうが、斎藤を迎えにくるのは永田ではなく、斎藤と付かず離れずの付き合いをしていた後輩夏目です。救いがないのはどちらの山月記も同じですが、全体的に森見登美彦氏の「山月記」の方がさらに悲哀が滲んでいるように感じました。

俺は何よりも、自分に敗れたのだ。あれほど誇り高かったこの俺が!

 

 

海の見える理髪店

海の見える理髪店

 

 『コンビニ人間』が芥川賞を取った同時期に直木賞を取ったのが本作です。

とはいえ、なかなか買うきっかけがなく放置していました。

しかし今回Kindleでセールになっていたので、漸く重い腰を上げて購入することとしました。

「成人式」は本書の最後に収録されています。

娘を亡くしてしまい毎日を鬱々と過ごしていた夫婦が、娘の成人式に代理で出席するべく奮闘する中で前向きになっていくというお話です。

あらすじだけ聞くと荒唐無稽ですが、読むと「たられば」から抜け出すためにはこういう無茶をするしかないのかもしれないと思わされます。

そもそも私たち夫婦には、自分たちだけ何かを楽しんだり笑ったりするのが罪悪に思えていた。 

 という状態まで至ってしまっては、尋常な手段では回復不可能です。とあれば、ちゃぶ台をひっくり返すような手段に訴えるほかありません。道理を引っ込めるために無理を通すとでも言いましょうか。

後悔するだけ後悔したら、このような跳躍が必要なのかもしれないと思わされた一作でした。

中島敦『山月記』、森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』、東村アキコ『かくかくしかじか』

我々はしばしば自分のことだけ考えてしまう。

それが良いか悪いかは何とも言えない。

 

 

でも、時として、己を貫き通した結果、他人を傷つけてしまうことがある。しかも、己を貫き通したにもかかわらず何ら成果を挙げられず、結局自分を傷つけることもある。

 

 

とはいえ、他人や自分を傷つけるのを恐れて自分を曲げるのもどうなのだろう。それもまた、他人や自分を傷つけることになるのではないか。他人は責任を感じてしまうかもしれない。自分は後悔するかもしれない。

 

 

つまるところ、どちらが正解というわけではない。しかしながら、選択した結果は背負わなければいけない。

 

 

というわけで、今回のテーマは「エゴ」である。

 

 

山月記

山月記

 

言わずと知れた名作である。

詩人として名を馳せようとした李徴が失敗し、妻子のために役人として働くも、ついには発狂して虎になってしまう。

虎になってもなお詩を諦めきれぬ李徴のもとに、たまたま旧友である袁傪が訪れる。李徴は袁傪に己の詩を託すが、最後にもう一つ頼みがあるという。

お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らは未だ虢略にいる。固より、己の運命に就いては知る筈がない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖、之に過ぎたるは莫い。

 言終って、叢中から慟哭の声が聞えた。袁も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副い度い旨を答えた。李徴の声は併し又先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。

 本当は、先ず、此の事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩集の方を気にかけている様な男だから、こんな獣に身を堕すのだ。

私はこの台詞を吐いた李徴の心境を思うと涙を禁じ得ない。お前は誰よりも人間だと叫びたくなる。

 

 

先日も貼りはしたけれど、紹介はあってなきがごとしだった。

解説で養老孟司氏が夏目漱石の『こころ』を連想したと書いていたが、私は『山月記』を連想した。どこどこまでも研究の道を貫いていく喜嶋先生に、李徴の姿を見た。

山月記』に比べると長い物語なので引用したい箇所は少なからずあるけれど、ここでは研究の道から去っていく者に喜嶋先生が痛烈な一言を囁くシーンを取り上げよう。

 こういう世界にはいられない、という人たちが、少しずつ去っていく。そんな光景を、僕は幾度も見た。恵まれた人の場合は、少しだけ関係のある分野の研究所か、メーカの開発部に就職口を見つけて大学を去っていく。学科の歓送会では、出ていく人は「今までの経験を活かして」と挨拶をする。たまたま横に立っていた喜嶋先生が、僕に囁いたことがある。

「そんな経験のためにここにいたのか」

 喜嶋先生なりのジョークかもしれないから、僕は先生に微笑んで返したけれど、じっくりとその言葉を考えてみると、こんなに凄い言葉、こんなに怖い言葉はない。

 良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。

 経験を積み重ねることによって、人間はだんだん立派になっていく。でも、死んでしまったら、それで終わり。フリダシにさえ戻れない。

 だから、こういったことを真剣に考えると、涙が出るほど悲しくなる。なるべく考えない方がきっと良い。たぶん、これは感情というものだと思うけれど、できるだけ自分をコントロールして、こういった気持ちを野放しにしない方が生きていくために必要だ、と思う。それに失敗した人たちが、今もどこかで泣いていて、酷いときは死んでいくし、運が良ければ去っていく。いずれにしても、この怖ろしさから逃げるしかなくなるのだ。

 『喜嶋先生の静かな世界』を読んでいると、あまりにも水が綺麗だと普通の魚は生きていけないという話を思い出す。

 

 

誰よりも厳しく、誰よりも優しい恩師であった日高先生に最後まで誠実であれなかった東村アキコ氏の回想録である。

ここで描かれる東村アキコ氏はそれはもう最低である。月謝5000円という破格の安さで絵の指導をしてくださっている日高先生に対して恩を仇で返すような仕打ちしかせず、挙句の果てには余命幾許もない先生を前にしても己の仕事や遊びを優先させてしまう。

しかし、それは全て終わった後だから最低だと分かることであって、当時はそれが精一杯だったのだ。後悔は山のようにあるけれど、でも全力で生きていた。

そんなのは言い訳でしかないかもしれない。しかし、そう納得して生きるしかない。

そのように感じて、「ああ、自分もどうしようもないやつだけど生きよう」という気分になる。そんな漫画である。

遺書

遺書を書いてみようと思ったことがある。
いや、自殺しようと思ったわけではない。むしろ自殺はすまいと決めた後だった。
しかし、人間死ぬときは死ぬものだ。不慮の事故で死んでしまうこともあれば、予期せぬ病で死んでしまうこともある。
そういうとき何か遺していればあるいは慰みになるかもしれないと思い、遺書を書いてみようと思った。


ところが、遺書を書き始めた途端に危ない目にあうことが増えた。自転車でも転んだ。
なんら関係はないかもしれないけれど、やはり死を意識した文章を書くと無意識に影響を与えるのかもしれない。予言の自己成就なんて言葉もある。
というわけで、遺書を書くのは止めた。


それに、大した量ではないけれど、私的な日記やらはてなやらでそこそこ文章は書いている。
そう考えたら、やはり遺書は必要ないかという気がしてきた。


まあ、ぼちぼち生きて、死んだらそのときだ。
そう思うことにした。

施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』、玉川重機『草子ブックガイド』

 本を読むことが億劫になっていた時期があった。

自分は読んでも読んでも忘れるのだ。

周りの方々は読んだ本についてすらすら語れるのに、自分は固有名詞からまず出てこない。

こんなんなら、読んでも仕方ないんじゃないか。

そう考えて、距離を置いたこともあった。

でも、気づいたら本に手を伸ばしているのだ。どうにもこうにも断ち切れない。

それなら、忘れてしまっても何か残っているのではと信じることにした。

それに、何も残らなくても、読んでいる間は夢中になっているではないか。

そのことに意味を見出してもいいのではないか。

まあ、気休めに過ぎないけれど、最近はちょっとだけ気楽に読書できるようになった。

 

 

というわけで、今回のテーマは「読書」である。

バーナード嬢曰く。: 1 (REXコミックス)
 

 私の周りでは以前から話題になっており、この度ついにアニメ化した。

主な登場人物は四人である。労せずして読書家になりたい町田さわ子(自称「バーナード嬢」)、「一昔前にベストセラーになった本を読むのが好き」という一癖も二癖もある遠藤くん、そんな遠藤くんに密かな想いを寄せている図書委員のシャーロキアン長谷川さん、SFマニアで最初は町田さわ子に激怒していたもののいつの間にかただのツンデレになっている神林しおり。そんな四人が本を巡ってグダグダ語るだけなのだけれど、これが滅法面白い。

しかし何故か私の印象に最も残っているのは作者のコラムだ。2巻の【宮沢賢治①】【宮沢賢治②】の2本立てのコラムで、宮沢賢治の「告別」という詩が取り上げられる。なお、「告別」は青空文庫で読める。(下から3番目なのでかなりスクロールしないといけない。)

孤独な毎日の中、漫画家になるべく不断の努力を重ねたのかというと、僕はまったく何もしていなかった。漫画はさっぱり描いていなかったし、そんなことより「告別」を暗記することに、全精力を注いでいた。詩集も「告別」以外は読みもしなかった。

身も蓋もないのだが、この身も蓋もなさがなんかいい。そんな漫画である。

草子ブックガイド(1) (モーニングコミックス)

草子ブックガイド(1) (モーニングコミックス)

 

 こちらはちゃんと(?)読書する女の子が主人公である。

しかし能天気な町田さわ子に比べてこちらの内海草子は重い。

お父さんは画家崩れの呑んだくれで、草子は口下手で友達がいないときている。

しかし書物を通じて、少しずつ周囲と分かり合い、成長していく。

絵の巧さも圧倒されるけれど、草子が物語を血肉としていく様子がよく描かれていて、さらには本のカバーも凝っており、あらゆる面で完成度が高い。

実は読んだのは随分前なのだけれど、こうして紹介していたらまた読みたくなってきた。読むか。