読書記録

読んだ本の内容を思い出せないことが増えてきたので、何でもいいから記録を残すことにしました。ネタバレもありますのでご注意ください。

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 随分と昔に実家でめくった記憶があるけれど、それっきり放置していた。

 

 

しかしこの度『神様のカルテ』で屋久杉くんを変えた一冊として登場したのを見て、ふと読みたくなった。とはいえ今は実家を離れているので、帰省した折に探した。

するとどうしてだか見当たらない。確かにあったはずなのに。そして思い出した。以前、後輩たちに蔵書の一部を配ったことを。おそらくその時にあげてしまったのだろう。

 

 

しかしここまできて引き下がるという選択肢はない。というわけで、再び買った。我ながら阿呆だと思うが、手放してもまた買い戻したくなるような書籍に出会えたのだから良かったと考えたい。

 

 

以前の印象は「淡々と語っている」だったのだが、いざ読み直してみるとむしろ情感豊かに描かれている。なにせ原題が「心理学者、強制収容所を体験する」で、体験記の体裁をとっているのだから、感情が篭っているのももっともだ。いったい以前は何を見てそう思ったのだろう。

 

 

それはさておき、本書は体験記であって、論文というわけではない。収容→収容所生活→収容所から解放されての三段階に分けて語られるものの、何か一つの目的に向かって文を積み重ねていくというよりは、それぞれの段階での著者の体験をありありと描写することに主眼が置かれているように感じた。

 

 

個人的には第二段階(収容所生活)の「精神の自由」からの数十頁が心に響いた。過酷な収容所生活にあって、現在の生を投げ出さず、むしろ内的に成長することのできる人間がいるのだ。「生きる意味を問う」の箇所は私のような平々凡々たる日々を送る者にも痛切である。一部を抜粋すると、

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。 

 

 

私も考えを堂々巡りさせるだけではなく、ほんの少しずつでも何かを成し遂げたい。そのために私は読み、書き、勉強するのだ。