森見登美彦「山月記」(『新釈走れメロス』所収)、萩原浩「成人式」(『海の見える理髪店』所収)
あのときああしていたら。
あのときああしなければ。
「たられば」で歴史を語るべからずとはよく言いますが、よく言われるということは逆説的にそれだけ「たられば」に人は陥るということです。
仮定の話が意味をなすのは、それが未来に現れうるときだけ。
だから取り戻しようのないことについて「たられば」を云々しても仕方ない。
頭では分かっていても、体得するのは困難です。
今回はそんな感じの短編を取り上げます。
私は一時期森見登美彦氏の作品にはまっていました。
というか、今でも時々読み返してしまいます。
そしてこの前中島敦『山月記』を紹介し、ふと思いついてこちらの「山月記」も読み直した次第です。
中島敦『山月記』と異なるのは、李徴には袁傪がいましたが、斎藤秀太郎には誰もいません。斎藤を尊敬してやまない永田が強いて言えば袁傪に近いのでしょうが、斎藤を迎えにくるのは永田ではなく、斎藤と付かず離れずの付き合いをしていた後輩夏目です。救いがないのはどちらの山月記も同じですが、全体的に森見登美彦氏の「山月記」の方がさらに悲哀が滲んでいるように感じました。
俺は何よりも、自分に敗れたのだ。あれほど誇り高かったこの俺が!
『コンビニ人間』が芥川賞を取った同時期に直木賞を取ったのが本作です。
とはいえ、なかなか買うきっかけがなく放置していました。
しかし今回Kindleでセールになっていたので、漸く重い腰を上げて購入することとしました。
「成人式」は本書の最後に収録されています。
娘を亡くしてしまい毎日を鬱々と過ごしていた夫婦が、娘の成人式に代理で出席するべく奮闘する中で前向きになっていくというお話です。
あらすじだけ聞くと荒唐無稽ですが、読むと「たられば」から抜け出すためにはこういう無茶をするしかないのかもしれないと思わされます。
そもそも私たち夫婦には、自分たちだけ何かを楽しんだり笑ったりするのが罪悪に思えていた。
という状態まで至ってしまっては、尋常な手段では回復不可能です。とあれば、ちゃぶ台をひっくり返すような手段に訴えるほかありません。道理を引っ込めるために無理を通すとでも言いましょうか。
後悔するだけ後悔したら、このような跳躍が必要なのかもしれないと思わされた一作でした。