読書
私はしばしば本を読む。今日も1冊読んだ。いや、読み終わったのが1冊というだけで、触れた本はたくさんある。漫画でも小説でも新書でも専門書でもなんでも気が向いたら読む。いや、専門書は殆ど読まないが、それでも懐かしさにかられて捲ることはある。私も学問の道を志そうかと思っていた時期もあった。いま思えばなぜ諦めたのかよく分からない。とはいえ過去には遡れないのでどうしようもない。せいぜい今を楽しむのみである。
しかし本を読むことを楽しんでいるかと言われるとこれまた疑問である。もちろん読んでいて楽しい時もある。だが読んでいて辛い時もある。何も思わない時もある。
そう考えると、ゲームとかテレビとかにシフトしたほうがいいかもしれない。
ただ、ゲームは終わるまで時間がかかりすぎる。将棋は1局という分かりやすい区切りがあるのでたまに指すが、RPGとかアクションとかは大学生になってからプレイしていない。ゲームのキャラを育てたり物語を進めたりするより自分の人生をどうにかしろと思うお年頃になってしまったのである。
テレビは観始めたら延々と観ていそうで怖い。だから買っていない。某社の集金が鬱陶しくなってはきたが、屈してはならない。
それに比べると本は良心的である。私は読むのが遅いが、1冊読むのに20時間も30時間もかかることはない。読むのも読まないのも自由である。それに読むのを途中で止めることもできる。どんな本を読むかも自由に決められる。この気楽さが良い。
これからも軽やかに読んでいきたいものだ。
レイ・ブラッドベリ(著)宇野利泰(訳)『華氏451度』
- 作者: レイブラッドベリ,Ray Bradbury,宇野利泰
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/11
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 115回
- この商品を含むブログ (102件) を見る
数ヶ月前、たまたま弊社の説明会に来られたお若い方が本書を読んでいると仰っていたので、遅ればせながら私も読んでみました。
率直に申し上げますと、イメージの奔流についていけないところも多々ありました。私にはどうも言葉から情景を想像する力が乏しいらしく、ふわふわした描写を続けられると頭に靄が立ち込めることとなります。言葉遊びなら楽しめるのですが。
しかしながら、話の筋はとても面白かったです。どことなく『1984年』を思わせるディストピア的世界観ながらも、主人公は最後まで刹那の享楽が支配した世界に立ち向かっていきます。娯楽が氾濫している現代を思うと思考を巡らせずにはいられません。
また、本筋には関係ありませんが、『バーナード嬢曰く。』1巻冒頭の【名言】の元ネタと思しき箇所があって笑いました。
力だ、とおれがいうと、きみはジョンソン博士を引用して、〈知識は力と同等以上だ!〉とさけぶ。そこで、おれはこういった。なるほど、ジョンソン博士の引用か。だが、あの男は、また、こうもいってるぜ。〈不確実なことのために、確実なことを捨てるものは、賢明とはいえない〉とな。(216頁)
立ち止まって考えることを忘れてしまいそうな時にまた読みたいです。
なぜ書店に行くのか
私は散歩がてら書店に行くことがままある。
そのせいか、たまに「書店が好きなんですね」と言われる。
雑談では「まあ」というくらいで流すことになるが、改めて考えてみると書店が好きなのかはよく分からない。
書店に行っても必ずしも気持ちが浮き立つわけではない。
買う本が決まっている時もあれば決まっていない時もある。事前に決めた本をただ買って帰るだけの時もあれば、その場で追加で買って帰る時もある。実際に手に取って「やっぱりいいか」となる時もある。何も決めていないのにどっさり買って帰る時もある。何も考えずに来て何も思いつかずにぶらぶらしてそのまま帰る時もある。どういう気分になるのかはその時々である。
それに、どういう書店が好きということもない。どちらかと言えば大型書店に行くことが多いが、確固たる理由はない。検索機があったり品揃えが豊富だったりして求める本がある時には便利だから頻繁に足を運ぶうちに習慣になってしまったのだろう。それでもふらっとそのへんの小さな書店に寄ることもある。
では、なぜ書店に足が向くのか。
第一に、書店は気楽に入れる。店員さんが話しかけてこないのが素晴らしい。お客さんが少ない書店も多い。ネットのおかげだろうか。
第二に、外に出る口実になる。引きこもりは精神的にも肉体的にも良くない。少し遠い大型書店まで足を伸ばすと達成感があって良い。
第三に、自分の調子が分かる。本を眺めていてどんな気分になるかで心身の調子が測れる。すぐに帰って休むべきという時もある。
結局よく分からない。理由はないが続けている。これを趣味というのだろうか。
「サクラクエスト」、ウェルズ(著)池央耿(訳)『タイムマシン』
良い感じの商品がパッと見つからなかったので第一話を貼り付けました。
今更ですがトーマス・マンの『魔の山』が何か関係あるのでしょうか。ドイツ語の授業で冒頭の冒頭だけ読んだ記憶がありますが、読んだ記憶があるだけで内容の記憶はないので何とも言えません。
「よそ者を受け入れ、絶えず変化し生き残っていく」
そんなことを最後に会長が言っていましたが、これは地方都市だけでなく、都会にも、あるいは人間にも当てはまることかもしれません。
理解できるものに囲まれている環境は心地よいですが、いつしか硬直し、衰退してしまいます。由乃が訪れる前の間野山のように。
たまたま読んでいたウェルズの『タイムマシン』にも重なるものがありました。
万能の知性というのは、変化、危険、困難の代償で、つまりは自然の法則なのだが、とかく人はこのことを見落としがちだ。環境に文句なく適応している生き物は完璧な機械装置だよ。習性や本能が働いているうちは、自然は知性を喚起しない。変化、もしくは変化の要求がないところに知性は育たない。種々さまざまな必要と危険に否応もなく向き合う生き物だけが知性に覚醒する。
さらに連想を膨らませれば、『もやしもん』の金城さんが言っていた守礼の国沖縄のモットーが浮かびます。
怒っていいのは先祖からのこの地に不幸をもたらす者が居座った時だけ
でも争うのでなく時をじっくりかけてでもその者にいつか必ずやお帰りを願え
とがっていては折れてしまう
訪れる者のすべてをまず受け入れなさい
異質なものを受け入れる柔軟さとか余裕とかを忘れずにいたいものです。
惰性
森博嗣氏のエッセイ『つぶさにミルフィーユ』を最近ちょこちょこ読んでいる。
つぶさにミルフィーユ The cream of the notes 6 (講談社文庫)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/12/15
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (4件) を見る
100個お題を用意して、それぞれのお題に沿って簡単に語っている。
その31番目のお題が、
思考の道筋を一度築くと、そこに沿ってしか考えられなくなる。
である。
どきりとした。
どうも行き詰まりを感じていたところ、ズバリ原因を指摘されたように感じた。
これまで成果を挙げてきた考え方やらやり方やらを見直すべき時期なのだろう。