雑記

雑な記録。略して雑記。

考える葦

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

疲労は思考を鈍麻させる。しかし、尊厳を失ってはならない。

人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。
だから、自分の惨めなことを知るのは惨めであることであるが、人間が惨めであることを知るのは、偉大であることなのである。

「わたしよわたしよなぜ生きる そんなに死ぬのが怖いのか」という言葉がいっとき脳内で反芻していた。なんと私は弱く惨めなのか。
しかしそれを知り、直視し、なお生きるのは偉大なことである。そう言い聞かせて、私は今日も生きる。

パンセ (中公文庫)

パンセ (中公文庫)

残業

年度末。弊社の数少ない繁忙期である。


繁忙期の恐ろしいところは、ただ事務作業量が多いだけなら(少なくとも私は)耐え難くはないのだが、仕事が増えればミスも増え、ミスが増えればお叱りも増えるということである。自分が怒られるのも愉快ではないが、周囲が険悪になっているのも愉快ではない。
そして険悪になると、建設的批判とただの悪口の区別がつかなくなることが増える。また、本質と枝葉末節の区別がつかなくなることも増える。
おまけに–部下としては非常に困ることに–上司の助言や判断も仰ぎにくくなる。(いわゆる「もっと自分で考えろ!」と「どうして聞かなかったんだ!」の板挟み問題である。)


また、残業は残業を呼ぶのである。
よほど楽しいことでない限り、時間の経過に伴い作業の効率は落ちる。作業の効率が落ちれば、同じ仕事量をこなすのにそれだけ時間がかかることになる。時間をかけた割に仕事がはかどらず、しかもその疲労は翌日に持ち越される。残業→疲労→非効率化→さらに残業→さらに疲労→さらに非効率化→さらにさらに残業→……と、絵に描いたような負の連鎖である。
それに、残業時間は電話がかかってくることもなければ来客もない。となれば雑談も増える。といっても、雑談から仕事上の気づきを得ることもある。雑談で親睦を深めることで仕事が円滑に進むこともある。しかし、大半は益体もないおしゃべりである。特に残業が嵩むほど、現実逃避したくなるのか疲労により実のある話ができなくなるのか、意味のない会話は増える。
しかも、最悪なのは残業が続くとどこかで「残業すればいい」と思ってしまうことである。考えればもっと効率良くできるはずであるにもかかわらず、思考停止してしまう。30分考えれば5分で終わらせることができるのに、1時間かけて愚直に取り組むほうを選んでしまう、といったようなことが起こる。


残業が続くと上述のようなことを延々と考えてしまう。残業に百害あって一利なし。行き詰まったらさっさと帰って寝るのが一番である。

宮部みゆき『火車』

 

火車 (新潮文庫)

火車 (新潮文庫)

 

 

新潮文庫にして、およそ700頁弱。中々の長編である。

しかし二転三転する展開は読者を次の頁へ次の頁へと導いてくれる。私はこれまで全く宮部みゆき作品を読んだことがなかったが、例によってスローペースではあったものの、ぐいぐい読まされた。

この作品はフィクションではあるものの、とことん現実的である。カード社会という題材もそうだけれど、その題材の料理の仕方も「あんなプラスチックのカードが生む幻などに騙されてはならぬ」といった単純なものではない。善悪はともかく、カードは一大産業となっている。一度走り出した以上、止めることはできない。自動車のように。しかし、そこで事故を起こした人を、全て自己責任としてしまうのもまた違う。誰でもふとしたはずみに事故を起こしうる。他人事ではないのだということが、作品を読むとひしひしと分かる。

私は本作を二度別の方から推薦されているが、確かに本作は他人にオススメしたくなる作品である。物語として面白いのはもちろん、勉強にもなる。安心して推せる一作である。

学問には王道しかない

「(前略)いいか、覚えておくといい。学問には王道しかない」
(中略)
この王道が意味するところは、歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき清く正しい本道のことだ。
(中略)
どちらへ進むべきか迷ったときには、いつも「どちらが王道か」と僕は考えた。それはおおむね、歩くのが難しい方、抵抗が強い方、厳しく辛い道の方だった。困難な方を選んでおけば、絶対に後悔することはない、ということを喜嶋先生は教えてくれたのだ。


現状に不満を零したくなるとき、私はいつもこのシーンを思い出す。
不平を言うのは楽だ。全てを周りのせいにすることだから。
「組織が悪い」「制度が悪い」
確かにそうかもしれない。でも、この台詞は酒席での愚痴くらいが相応しい。


私は学問の道からは外れてしまったけれど、それでもこの王道という考え方は学問以外でも心に留めておくべきことだと思う。
私は王道を歩んでいるか。
迷ったらこの問いを思い出したい。


石川雅之『もやしもん』、重松清『疾走』

 

続き物を読み返すのは北方水滸伝とS&Mシリーズだけで収まるだろうと思っていたら、第三弾のもやしもんが出てきました。

最初に読んだ時、私は大学生でした。その時は詰め込まれている情報量の多さに驚いた記憶があります。樹教授の長台詞も凄いが、絵が細部まで描き込まれており、図解も作者がどれほど勉強し、読者に分かりやすく伝えようとしたかがひしひしと感じられます。些かボリュームが壮大すぎて消化不良ではありましたが、作者の力量にただただ感心しました。

一方、社会人になった現在では、むしろ沢木たちの毎日がお祭りのような大学生活に郷愁とも嫉妬ともつかぬ気持ちを覚えます。以前に引用しました『結物語』の阿良々木の台詞を忘れたわけではありませんが、それでも授業をサボろうと友人と前後不覚に陥るまで飲み明かそうと徹夜で勉強しようと何をしても許されたあの時代はもう帰ってきません。原則平日は出勤し、酒もほどほど、勉強するにせよ仕事に影響を出しては労働者失格です。自由でないとは言いません。むしろ己の意思でコントロールする事柄は歳を重ねるにつれ増えており、大学生の頃のほうが振り回されることは多かったです。でも得るものもあれば失うものもある。当たり前ですが、読みながらそうしたことを強く感じました。

とはいえ、まだまだヒヨっ子なので、沢木から独立しようとした蛍のように、父親と日本酒と真剣に向かい合った円のように、七転八倒しながらごちゃごちゃ考えたり行動したりしていきたいものです。

アリャ ワシから見りゃ 60にもなっとらん ただの小僧よ

 

30どころか 40になっても 一緒だぞ

こんなオヤジでも 上からは ガキ扱いだよ

お前ら位の歳なら 子供ぶる事も 出来るが オッサンは 逃げ場無しだよ

 

疾走

疾走

 

一生を駆け抜けた少年の人生を二人称で語った話です。

なぜ二人称なのか。それは最後まで読むと分かります。

最後は綺麗にまとめられていますが、振り返ると悲惨としか言いようがありません。しかし、悲惨を極める中でも、少年は救いを見出そうとします。どれだけ酷い目にあっても、にんげんを信じようとします。絶望せず、葛藤します。からから、からっぽになってしまえば、にんげんを、言葉を、何もかもを信じず、ただただ絶望していれば、きっと楽でしょう。しかし、少年は最後まで放り出しませんでした。

とある人に「私のバイブル」と紹介されて読みましたが、確かにその呼称にふさわしい一作でした。

 

誰か一緒に生きてください 

 

答え

ずっとインプットを繰り返していると、どこかに答えがあるのではないかとたまに思う。
読んで、観て、読んで、観て。これだけ情報があれば、どこかに、答えが。
しかし、そんなに都合の良いものはない。あっても、それは掴みとるもので、向こうからやってくることはない。


うっかりすると、また波に吞まれそうになる。流されるのは楽だ。楽だが、そこに己の意思はない。
意地という舵を取ろう。私という波紋を水に残そう。たとえすぐに消えてしまうとしても。

「イミテーション・ゲーム」

 

 

映画は暫く御免だと以前に申し上げたが、音と光が激しくなければ大丈夫であるはずだと信じ、「イミテーション・ゲーム」を観た。信じる者は救われるとの格言どおり、今回はそれほど頭痛に襲われることもなく視聴できた。

 

ぱっと思いつくこの作品のテーマは3つあり、天才、戦争、同性愛である。そしてそのいずれもが主人公アラン・チューリングを孤独に追いやっていく。輝かしい才能は周囲の無理解に晒され、より多くの命を救うためとはいえ、数多の無辜の命を見殺しにすることを余儀なくされ、本来自由であるはずの性的嗜好により法で裁かれた。その様子が過去と未来を行き来しながら描かれていく。チューリング自身は常に救いを求めているにもかかわらず、どうにもならない。確かに、チューリングは偉業を成し遂げた。同性愛も死後恩赦され、その学問的、社会的功績は誰もが認めるところとなった。しかし、全ては終わった後のことである。

 

ところで、振り返ってみて気になるのはチューリングの家族についてである。映画ではチューリングはずっと天涯孤独であり、家族は一切出てこない。伝記を読んだらそのあたりのことも分かるのだろうか。

 

エニグマ アラン・チューリング伝 上

エニグマ アラン・チューリング伝 上

 

 

エニグマ アラン・チューリング伝 下

エニグマ アラン・チューリング伝 下