雑記

雑な記録。略して雑記。

武者小路実篤『友情』

 

友情 (新潮文庫)

友情 (新潮文庫)

 

読み終わった直後は失恋した野島に涙を禁じえませんでした。

ただ失恋しただけでなく、唯一無二の友に見初めた女性の心を掴まれてしまったのです。

しかも友にも女性にも責められるところがありません。友は充分に野島のことを慮っていました。女性も自らの思いに正直であっただけです。

さらに友と女性の熱情は野島の理想の恋なのです。(些かアナクロニズムの感はありますが)女が男を支え、男は仕事で応える。己が夢見ていた恋を友が実現しているのを眼前に叩きつけられたのです。

しかし友にも女性にも当たることはできません。野島には何も残っていません。ただ孤独なだけです。なんと悲惨な話でしょう。

「自分は淋しさをやっとたえて来た。今後なお耐えなければならないのか、全く一人で。神よ助け給え」

 

 

しかし、改めて冒頭に戻ると次のような言葉が綴られていました。

人間にとって結婚は大事なことにはちがいない。しかし唯一のことではない。する方がいい、しない方がいい、どっちもいい。同時にどっちもわるいとも云えるかも知れない。しかし自分は結婚に就ては楽観しているものだ。そして本当に恋しあうものは結婚すべきであると思う。しかし恋にもいろいろある。一概には云えない。この小説の主人公は杉子と結婚しなかった為に他の女と結婚したろう。そして子が生れたろう。その子が男で、大宮と杉子の間に出来た女の子を恋して結婚するということも考えられないことではない。そして両方がお互に生れたことを感謝しあうと云うこともあり得ないことではない。

夫婦のことは何処か他の処で書こう。

自分はここではホイットマンの真似して、失恋するものも万歳、結婚する者も万歳と云っておこう。

少なくとも作者は悲惨とは捉えていないようです。 最初の段落は「どっちもいい」とか「一概には云えない」とか言っていて何も主張していないようですが、つまるところ人間どう転ぶか分からないということのように読めます。そしてどう転ぶか分からないなら真っ直ぐに生きたほうがいいのだということで、最後の段落の「失恋するものも万歳、結婚する者も万歳」に繋がるのかなと。失恋した野島も結婚するであろう大宮と杉子も、結果はともかく、それぞれが自分の想いに真っ直ぐでした。それは素晴らしいことです。

 

野島は恋に敗れました。しかし戦って敗れたのです。諦めて敗れたわけではありません。さっさと諦めれば傷は浅いでしょうが何も残りません。がっぷり四つに組み合い敗れたならその経験は己に刻まれます。そう考えると、何も残らずただ孤独になっただけではないのでしょう。

君よ、僕のことは心配しないでくれ、傷ついても僕は僕だ。いつかは更に力強く起き上るだろう。これが神から与えられた杯ならばともかく自分はそれをのみほさなければならない