雑記

雑な記録。略して雑記。

てつがく

仮にも哲学という名前の含まれている学科に所属している身なので、たまには哲学に関する本を読まなければと思い、この本に手を出した。

分析哲学講義 (ちくま新書)

分析哲学講義 (ちくま新書)

今日は講義2まで(つまりp.60まで)読んだ。

講義1は「分析哲学とは何か」。タイトルの通り、分析哲学とは何かについて対象・手法・歴史の観点から概説している。
まず、対象の観点から言うと、分析哲学とは言語を対象とする(とすると言いすぎかもしれないが、少なくとも言語に焦点を当てる)学問である。
しかし、言語を対象とする学問というと、言語学が思い浮かぶ。
そこで手法の観点から見ると、分析哲学は言語の機構を解明することで他の機構について説明する手法をとる。つまり言葉の分析からその言葉の表わすものを明確にしていく。たとえば、心だとか愛だとか世界だとかを分析するなら、「心」「愛」「世界」という言葉がどのように使われているかを見ていくことで、それらの言葉が表しているものについて考察していく。
そして最後に、フレーゲラッセルから人工言語学派・日常言語学派を経て、ウィトゲンシュタインクワインに至る歴史を見ていく(ウィトゲンシュタイン人工言語学派・日常言語学派と時代が被っているが、そういう順番で述べられている)。個人的に興味深かったのは、人工言語学派(後に論理実証主義)が科学哲学に、日常言語学派が心の哲学に繋がっていくという話。たまたま今ぼくが所属している学科ではこの二つの哲学を扱っているので。

講義2では「意味はどこにあるのか」という問題を扱う。
初めに意味は客観的でなければならないという前提を導入する。意味が主観的なものであれば、意味は伝達しないことになってしまい、我々は会話すらできないことになってしまうからだ。これは直観に反する。
では、その客観的な意味とは何なのか。
そこでまずはイメージ説(文の意味とは、その文から我々が抱くイメージのことである)を取り上げ、徹底的に批判する。
イメージは比較不可能なので客観的ではない、それゆえに意味ではない、で僕には十分に思えたのだが、この本ではさらにイメージ説の欠点を述べていく。
そこでイメージと概念の違いという話が出てくるのだが、個人的には「概念」という用語を定義せぬままに用いているところに違和感を感じた。「概念」と言われてもいまいちピンとこない。
さらにウィトゲンシュタインの「イメージは唯一の規則を与えない」という批判が取り上げられるのだが、これもまた僕にはピンとこなかった。ただ一つの規則だけを強制的に読みとらせるイメージなどないのはその通りだと思うのだが、ただ一つの規則だけを強制的に読みとらせないとだめなのだろうか。意味が客観的である必要はあってもただ一つに固定される必要はないと思うのだが。誤読しているのかもしれない。
イメージ説の批判は以上だが、イメージ説の批判だけで終わるわけではなく、意味の指示対象説(文の意味とは、その文が指示している対象のことである)が取り上げられる。
ただ、固有名ならばともかく、一般名詞については指示対象説を採用するとプラトニズムを持ち出さざるをえなくなる。つまり、「青い」とか「まるい」といった言葉はイデアを指す、という何とも胡散臭いことになる。
しかし、固有名だけについて言えば指示対象説は有力なのではないか。というわけで、講義3の「名前と術語」に繋がる。


要約するだけでもかなり難しい、ということに気がついた。「そもそも要約できるならそういう風に著者が書くはずだ」という巷でよく聞くこともあながち嘘ではないようだ。要約するよりも、読んで自分が考えたことを書いたほうがいいのかもしれない。