きのう
「昨日まで帰納が機能していたからと言って、今日帰納が機能するとは限らない」
という駄洒落を思いついた。しかし、パッと思いついた割には帰納の性質をよく表している。自画自賛である。
帰納とは、多くの例から一般的なことを導く推論のことを言う。例は「ある…は〜である」で表され、一般的なことは「全ての…は〜である」で表される。
例えば、
(前提1)あるカラス1は黒い。
(前提2)あるカラス2は黒い。
(前提3)あるカラス3は黒い。
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(前提n)あるカラスnは黒い。
(結論)故に、全てのカラスは黒い。
といったものが帰納となる。
一方、帰納とよく比較されるのが演繹である。演繹として有名なのは下の三段論法だろう。
(前提1)全ての人間は死ぬ。
(前提2)ソクラテスは人間である。
(結論)故に、ソクラテスは死ぬ。
演繹と帰納で何が違うかというと、演繹では前提が正しければ必ず結論が正しくなるのに対して、帰納では前提が正しくとも結論が正しくない可能性がある。
全ての人間が死んで、かつ、ソクラテスが人間であるならば、上の結論(故に、ソクラテスは死ぬ)は避けられない。2つの前提が正しければ必然的に結論が正しくなる。
一方、いくら「あるカラス…が黒い」という例を積み重ねても、我々の与り知らぬ所に白いカラスがいれば結論は正しくなくなる。これまで見てきた全てのカラスが黒くとも、これから見るカラスや他の所にいるカラスが黒いとは限らない。つまり、前提がいくら正しくても、必然的に結論が正しくなるということはない。
以上を踏まえて最初の駄洒落を見ると、
(前提1)紀元0年1月1日に帰納は機能した
(前提2)紀元0年1月2日に帰納は機能した
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(前提n)紀元2013年3月28日に帰納は機能した
という前提の集まりから「故に、いつでも帰納は機能する(から、今日、つまり3月29日にも帰納は機能する)」という結論が必然的には導かれないことがお分かりになるだろう。
何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、科学的知識というのは全て帰納から導かれる(「全ての」ことを観察したり実験することはできないのだから、どうしても個別例から普遍的な法則を導くことになる)。そして、上に書いたように、帰納で導いた結論は必然的に正しくはない。となると、科学も必然的には正しくないということになってしまう。
ここであまり深入りするつもりはないので、詳しくは以下の著作を参照してほしい。新書なので気軽に読めるはずだ。私のような素人がてきとうに書いた記述よりもよほど参考になると思う。それにしても、駄洒落を解説することほど阿呆らしいことはない。
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