雑記

雑な記録。略して雑記。

ずぷずぷと

床が溶けて足を絡め取られるようだ。
気付くと、もう解けなくなっている。
僕は必死にもがくけど、それは無駄。
ただただ沈むだけ。そしていずれ僕はなくなる。


今の絶望的な気持ちを言葉に乗せてみた。特に意味はない。


さて、今日はたまたまtwitterで見かけて「面白そう」と思った本を少しだけ読んだ。

歴史と事実―ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)

歴史と事実―ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)

歴史の語り方は唯一であるのか。
著者の言う「ポストモダン」では、それは否定された。
なぜなら、歴史を語ることと物語を語ることは、言葉を用いるという点で大差がないからだ。

言葉は不完全な道具である。それを紡ぐ側にとっても、その織物を読みこむ側にとっても。
というのは、言葉は現実をありのままに写す鏡ではないからだ。語り手は歴史をそのまま言葉に移しかえることはできない。読み手は言葉をそのまま歴史として再生することはできない。語るときには言語による分節化が、読むときには解釈がどうしても入り込む。

それを踏まえて、では、歴史を語るとはどういうことか。

第1章の僕が読んだ部分まで(p.27まで)では、壁画から始まって旧約聖書に至る史料・文献が取り上げられる。
しかし、著者によれば、これらはいずれも歴史叙述ではない。
歴史叙述とは、「自発的で主体的な問題関心から、過去の出来事の意味について考え、それを他の人に伝えようとすることを意味する」(p.18)。
壁画には自発的で主体的な問題関心があるのか判然とせず、また、壁画が、過去の出来事の意味について考えそれを他の人に伝えようとしているとは思えない。
旧約聖書は、神を讃えることが目的であって、自発的で主体的な問題関心があるとは言い難い。
そういえば、その前に『書経』と『春秋』も取り上げられていたが、これらの原形はそれぞれ単なる王の語録と簡潔な王の行動の記録に過ぎない。
こうして、歴史叙述とは何でないかが、具体例を通して語られていた。


大筋は自分の言葉で語って、つまったときに本文を参照するとわりとうまくいくことが分かった。
しかし、まとめてしまうと取りこぼしてしまった部分がどうしても目についてしまう。
ただ、ある程度まとめないと何も頭に入ってこないことは事実なので、「取りこぼしてしまっているところがある」ということをちゃんと認識していれば、いまはオーケーとしよう。